陽明学左派から学ぶ。なんでもかんでも、白黒ではなくグレーである!
陽明学は、ぶっ飛んでいます…当然、善い意味で、です。(^^;
それは、なんでもかんでも、白黒ではなくグレーである!という教えです。
要は、一元論なんです。
ふつう、人は、白か黒かの二元論で物事を考えます。
ところが、陽明学は違う!
なんでもかんでもグレー( 1 つ)である、という一元論。
この陽明学について、説明します。
陽明学については、こちらの記事もどうぞ。
人が克服すべき課題
陽明は逆境の中で、
日本人らしい生き方より
「人生には、生死の問題、死への恐怖以外に克服するものなど何もない」
ということに気づいたのでした。
人は必ず死ぬ、自分も例外ではない、ということを知った時、この考えにたどり着くのではないでしょうか。
で、この死の恐怖に対する対応策を考える。
最初に思いつくのは、どうすれば死なないで済むか…俗にいう不老不死というやつです。
これは相当難しい…もうほとんど幻想ですよね。
次に考えることは、どうすれば死ぬのが恐くならないか、です。
そこで、陽明学が導き出した答えが、生きるも死ぬも同じことである、ということ。
生きるか、死ぬかそれぞれ別に考えるのではなく、人は生まれて死に向かい、死んで生が終わる、とする。
今、まさに、我々は死に向かって生きている、ということです。
精神と物質に区別なし
朱子学との違いを一言で言えば、
日本人らしい生き方より
「朱子学は二元論であり、陽明学は一元論である」
ということです。
朱子は、物質的なものである「気」と精神的なものである「理」(天理)の二つの要素によってこの世界はでき上がっている、と主張しました。言い換えれば、物質的な現象とその現象を背後から支えている理念(本質)によって成り立っている、というのです。
しかし王陽明は、「心すなわち理」である、天理(物事の道理)は心の中にある、と主張しました。つまり理と気に、精神と物質に、区別などないと主張したのです。
陽明学は、儒教から朱子学を経て、編み出された学問です。
で、朱子学は二元論だった。
王陽明には、この二元論、とても受け入れられなかった、とのこと。
そこで、一元論を提唱。
精神と物質に区別なし。
これ、陽明学では「心即理」と言います。
わざわざ 2 つに分けて、考える必要なし、です。
知行合一
「思いと行動は、別々のものではなく、二つで一つ、一体のものである」
真説「伝習録」入門より
「生は死の始めであり、死は生の成ったものである」
生まれると同時に死が始まるということは、生と死の間に区別はない、生と死は、もともと二つで一つである、ということなのです。
生と死を楽(幸・順境)と苦(不幸・逆境)に置き換えるともっと分かりやすいでしょう。
あるいは、<めんどくさくないこと>と<めんどくさいこと>と言い換えることができます。
知行合一とは、ぶっちゃけ生死と同様、なんでもかんでも 1 つですよ、ということです。
ここでも出ました、なんでもかんでも 1 つ!
ずっと苦もないし、ずっと楽もない。
だから、同じである、と。
今は苦しくても、頑張りなさい、と。
そうすれば、いずれ楽になるから、ということです。
「人間万事塞翁が馬」ですね。
ですから、いちいち喜んだり悲しんだりせず、今、目の前の課題を淡々とこなせばいいのです。
事上磨練
「事上磨練」とは、ここでは簡単に、「日常生活や仕事の中で、自分を磨きなさい」といった教えだと理解しておいてください。
日本人らしい生き方より
「事上磨練(じじょうまれん)」を一言で言うと、「ビッとしろ!」です。(^^;
ダラダラせず、身近なことから、ただ、やることをやる、です。
そうすれば、自分の心・精神が磨かれ、勉強や仕事もうまくいき、結果もついてくる。
「事上磨練」、いいことづくめですね。
「よい結果を求めるのではなく、今この瞬間にベストを尽くせ」
真説「伝習録」入門より
「事を処理する場合、うまく行く時もあれば、行かない時もある。
<もしうまく行かなかったらどうしよう>
<仕事の手順を間違ったらどうしよう>
など心配するのは、損得の念が強いためである。大事なことは、ひたすら良知を発揮すること、心を尽くすことのはずなのである」
損得の念が強い人、計算高い人というのは、誠実な人の対極に位置しています。計算高いけれど、誠実だなどという人はあり得ないのです。
損得の念をなくしていかない限り、誠実な人間になることはできません。
「事上磨練」って、フロー理論にも通じますね。
利益を考えず、思い立ったら即やる、です。
いちいち考えない。
いけると思ったら実行!です。
フローについてはこちら。
「仕事はもちろん、挨拶をするとか、服を着るとか、食事をするとかの日常生活のこまごまとしたことににも心を込めて、誠実にやりなさい。そうすることが、気づきを深め、悟りを得るための道なのです」
真説「伝習録」入門より
悟りを得たいから心を込める、というのは、本当のところは問題があります。
何かしらを得るためにやるのでは私欲をなくすことになりません。
悟りを得たいがためにするというのではなく、ただひたすら心を尽くすことがなにより求められているのです。
まさに、普段から「ビッとしろ!」ですね。
悟りを得たい、とか、何かしらの利益をいちいち求めちゃダメである、と。
そこで、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、ずっと自宅にいる中 2 の息子にも、少し陽明学を…。
まず、毎朝 7:00 に起きて、ボクに朝起きたことを知らせるよう、約束しました。
毎朝決まった時間にビッと起きないと、その日のやる気が削がれますから…まず、そこからです。
早速、本日 2020.3.29.Sun は、息子は 7:00 にビッと起きて、「おはよう!」と。(^^)
これから、更に普段の生活が善くなることを期待します。
致良知
「至良知」(良知を致す)
日本人らしい生き方より
を主張しはじめますが、この辺りが陽明学のほぼ完成の時期です。
聖人になるには、ただひたすら「良知を致す」、それだけでいいんだ、と言うのです。
悟りを開いた陽明が言うわけですから、「良知を致す」という言葉にはもっと深い意味があるのでしょうが、まずは「誠を尽くす」といった程度の理解でいいと思います。
とはいえ、凡人である私たちには、「嘘をつかない」「いいことだけを思い、悪いことは思わない」「いいと思ったことはすぐに実行に移す」などの、どれか一つでも、言うは易しで、実行することは難しいのです。
「良知を致す」とは、「誠を尽くす」こと。
しかも、「事上磨練」も兼ねて、普段から、「誠を尽くす」と。
ここで、余計なことである、メリデメは考えない。
ただ、いけると思ったら実行!
掃除したり、料理したり、仕事したり、勉強したり、運動したりと、とにかく日々善いことをする、です。
とても、分かりやすい、です。
人生の大病はただ傲(ごう、おごる)の一字です。
真説「伝習禄」入門より
子となっておごれば必ず親不幸となります。
臣となっておごれば必ず不忠となります。
父となっておごれば必ず不慈(慈しまないこと)となります。
友となっておごれば必ず不信(を行うこと)となります。
傲る、いわば、高慢、プライドのことですね。
要は、上目線、これがいけない、と。
なぜ、上目線がいけないのか。
人をバカにして、自分を客観的に見ることができず、結果ズルいことをしたり、自分の利益になることだけをするようになるから。
「人の振り見て我が振り直せ」をすべきなのに、それができなくなってしまう。
恐いですね、傲りって。(((( ;゜Д゜)))
欲望には、自然なものと不自然なものが存在するとして、欲望をすべて否定しているのではありません。
たとえば、食欲や性欲は、適度にないと困るわけです。
つまり、まったくなくても、逆にありすぎ(執着しすぎ)ても、どちらも大変なことになってしまうのです。執着しない、こだわり過ぎないことが大事なのです。
真説「伝習録」入門より
決して、こだわるなと、幸福感を味わうなと言っているのではありません。あくまでも過ぎるなということです。
欲望に対してこの解釈は、とても Good です。(^^)
陽明学の懐の深さを感じます。
というか、これが自然ですね。
白黒付けず、グレーである陽明学の特色がとてもよく現れています。
陽明学的には、「中庸」といいます。
「中庸」とは、適度、執着しない、こだわり過ぎない、です。
この中庸は、我々現代人にも、すっと腑に落ちるのではないでしょうか。
「陽明学をひとことで言えば」と弟子に質問され、王陽明は「誠の一字である」と答えたといいます。
日本人らしい生き方より
「致良知」の考え方を最後に編み出した、王陽名最後の答えがこれです。
とにかく、「誠」なんですね。
幕末に活躍した、新選組の隊旗「誠」は偶然ですかね???
陽明学と関係ありそうです。
良知に従って行動していけば、善は残り、悪は去る。
真説「伝習録」入門より
日々、自分の良知に従って行動すれば、間違いなし!
自ずと悪は去り、善が残る、と。
日々、良知に従って、行動あるのみです。(^^)
まとめ
おすすめ本
「真説「陽明学」入門」、「真説「伝習録」入門」、「日本人らしい生き方」です。
ボクは、この順番で読みました。「事上磨練」には、目からウロコです。
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